2012年9月22日土曜日

本のこと  「空海の風景」 つづき 9

空海の帰国を待っていたかのように時代が動く。

桓武帝が崩御し、平城天皇の時代、やがて嵯峨天皇が即位する。

空海は、「御請来目録」を朝廷に上奏するように、高階真人遠成に託したのち、大宰府ですごす。密教の体系化がすすむ。

「御請来目録」やひとびとのうわさで、空海への関心、期待が都でひろがる。奈良仏教は、最澄の批判に抗するために、最澄は、自らの密教の不足を補うために、期待した。

翌年、都に上り、その教えを伝えよ、という勅命が下り、和泉国槙尾山寺に入る。翌年、高雄山寺に住す。この年、東大寺別当になる。その翌年、山城国乙訓寺別当となる。実に、慌ただしい。

嵯峨天皇との交流がはじまっている。

そして、帰国十年後、嵯峨天皇に請い、高野山を賜る。2年後、伽藍の建立に着手する。あくまでも、私寺としてである。浄財を集める苦労もあった。

一方、満膿池の修築工事の別当となり、わずか3ヶ月で完成する。

高野山をひらいてから、7年後、嵯峨天皇により東寺を賜り、密教の根本道場とする。勅により、教王護国寺と号する。五十人の僧を常住させ、修学がはじまる。

まもなく、日本最初の私立学校「綜芸種智院」を開設する。その設立趣意書に、「貴賎を論ぜず、貧富を看ず」とある。教授科目も、仏教のみならず、儒教、道教を並べた。

これも日本最初になる漢字字典「篆隷万象名儀」を編纂した。

空海が、この国にもたらした真言密教の真髄は、絶対平等主義にある。また、曼荼羅にもあるようにすべてのものに仏性が宿るとされる。

実に、楽しい、ものの見方を考えさせられる「空海の風景」であった。


















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